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福岡高等裁判所宮崎支部 昭和40年(行コ)1号 判決

控訴人(原告) 大平ヲキ

被控訴人(被告) 鹿児島県教育委員会

主文

本件控訴をいずれも棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は「原判決を取消す。被控訴人が昭和三七年一月二三日付でなした控訴人に対する免職処分が無効であることを確認する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、右請求が容れられない場合は予備的に「原判決を取消す。被控訴人が昭和三七年一月二三日付でなした控訴人に対する免職処分を取消す。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は主文同旨の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張並びに証拠関係は原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。

理由

控訴人が大正九年四月小学校代用教員となり、爾来小学校訓導、助教諭、教諭、講師を経て、昭和三六年四月から鹿児島県囎唹郡志布志町立志布志小学校に講師として奉職していたこと、被控訴人が昭和三七年一月二三日控訴人に対し、(一)児童の教育に熱意がなく、指導力にも欠け、責任感に乏しく、且つ勤務実績が不良であり、(二)教養、識見、誠実、社会性等教職員に必要な適格性を欠く、との理由で地方公務員法(以下単に地公法と略称する)第二八条第一項第一号及び第三号により控訴人を同年二月二三日付で分限免職に付する旨の処分をしたことは、いずれも当事者間に争がない。

そこで本件処分免職処分の当否につき順次判断する。

第一、期限付分限免職処分について

控訴人は、被控訴人が昭和三七年一月二三日になした控訴人を同年二月二三日付で分限免職にする旨の処分は、免職の処分に期限が付されていることになるのであるが、分限免職の処分に期限は付しえないものであるからそれは違法であると主張し、これに対して被控訴人は、かように期限を付したのは労働基準法(以下単に労基法と略称する)第二〇条適用の結果であると主張するので考えるに、地方公務員の免職の場合に同法条が適用されることは、地公法第五八条第二項(但し昭和三九年法律第一一八号による一部改正前の旧規定)において労基法第二〇条の適用を特に排除していないことからして明らかであり、かつ同法条の予告は解雇の意思表示と別個になす必要はなく、予め三〇日以上の期間を設けて解雇の意思表示、つまり期限付意思表示をなせばその要件は充たされるものと解すべきであるから、地方公務員の免職に労基法第二〇条が適用される以上、当然免職にはその意味においての期限を付しうることを予定しているものと解するを相当とし、一面地方公務員が地公法第二八条第一項各号の一に該当する場合においてそこに定められた処分をなすかどうかは任命権者の自由裁量に任されているものと解すべきであるから、その意味においても免職の処分には期限を付しうるものと解するを相当とする(なお、実質的に見ても、地方公務員の身分保証のために設けられた地公法第二八条による免職処分において、前認定のような期限が付されたとしても、それによつて当該公務員が不利益を受けるとは到底解されないから、その意味においてもかかる期限は付しうると解される)。

この点に関し、控訴人は、

まず、たとえ労基法第二〇条が適用されるとしても、鹿児島県職員の分限及び懲戒の取扱に関する規則第四条により予告と免職の意思表示は別個になさるべきであると主張するけれども、同条がかかる趣旨を規定したものとは到底解されない。

次に、免職の処分が期限付でなされることにより原判決事実摘示二の(一)の(1)のような不都合な結果が生ずると主張する。しかし、期限付免職処分と云えどもそれは期限付免職の意思表示という確定的なものである以上、なお独立の処分として成立し且つ存在するものであり、従つて被処分者は直接この処分自体に対し不利益審査の請求等をなせば足り、その効果の発生を待つ必要もないから、この点に関する控訴人の主張も独自の見解であつて採用できない。

更に、教員として不適格と認められた者が免職期限到来までの間引続き教職にとどまることは児童の「教育を受ける権利」を侵害する結果になるのでかかる期限付処分は許されないと主張するが、教育公務員に地公法第二八条第一項第一号、第三号に該当している事実があるからといつて、そのことが直ちに学校の児童の「教育を受ける権利」の侵害と結び付くとは考えられないから、控訴人の右主張も理由がない。

第二、本件分限免職処分の手続について

控訴人は、本件処分の手続は公開の原則に違反してなされたものであると主張するので、この点につき判断する。

まず、本件免職処分をなすについての被控訴人の会議が公開されていなかつたとの事実を肯認できる証拠は何もない。控訴人は右会議の開催場所及び日時並びに会議に付議すべき議事の告示及び控訴本人への通知がなかつたことをもつて(この点は当事者間に争がない)それは非公開であつたと主張するもののようであるが、公開と右にいう告示及び通知が直ちに結び付くものとは解されないから、単にそのことのみをもつてそれが非公開であつたということはできない。また、たとえそれが非公開でなされたとしても、それをもつて直ちに本件処分が違法であるということはできない。何故ならば、控訴人主張のように、公務員に対し不利益処分をなすについての審理手続は公開の原則に従うことが近代民主国家における根本理念であり、憲法及びその他の法律の根本原則であるとは到底考えられず、従つて地方教育行政の組織及び運営に関する法律第一五条等に基き制定された鹿児島県教育委員会の行政組織等に関する規則においても、教育委員会の会議は原則として非公開としており(第一八条によつて会議の傍聴を委員長の許可にかからしめていることからして明白)、特に不利益処分の審議を公開しなければならないとは定めていないのである。従つて控訴人の右主張も理由がない。

第三、分限免職事由の存否について

一、勤務実績不良の点

(一)  控訴人の服務観念及び勤務態度について

証人別府国丸の証言により真正に成立したと認められる乙第二号証の二、同号証の四の二、九、一一、証人末吉保男の証言により真正に成立したと認められる乙第二号証の四の一、証人鶴留徳一の証言により真正に成立したと認められる乙第四号証の一及び証人別府国丸、同末吉保男、同瀬戸吉三郎、同松方敏博、同留岡喜佐子、同池尻実男、同鶴留徳一の各証言並びに控訴本人尋問の結果(但し、後記信用しない部分を除く)を総合すると、次の各事実が認められる。

控訴人は、

(1) 昭和二八年四月から昭和三六年三月まで鹿児島県囎唹郡志布志町立森山小学校に教員として勤務していた当時、学校朝会や授業時間に遅れることが多く、昭和三五年頃には、一、二分程度の遅刻が年間約五〇回、一〇分以上の場合が十数回にもおよび、更に自宅から比較的近い同町立志布志小学校に転勤後も昭和三六年五月から同年一一月までの間に二分乃至一五分程度の遅刻が一〇回も記録されている。

(2) 森山小学校在任当時、定められた校時表(学校全体の日課表)を正確に守らず、特に授業開始の時間が遅れ勝ちで、その上学習指導に計画性が乏しいため授業が次の休憩時間にまで食い込んで兎角時間的にルーズになることが多く、またテスト等をして遅くまで児童を学校に残し(時には所定の下校時間より一時間乃至一時間半程度も遅れることがあつた)、控訴人自身も職員会議の集合等に遅れたりすることが少なくなかつた。

(3) 勤務中、格別要もないのに同僚に話しかけて仕事を妨げたり、授業時間中に児童に肩をたたかせたり、森山小学校在任当時、学校で自己の昼食の炊事をしていたため第五時限目の授業に遅れたり、所用のための校長の呼び出しに故なく応じないことなどがしばしばあつた。

(4) 森山小学校では文部省の定めた学習指導要領に基づく教育課程を効果的に実施するため、校長の提案により職員会議で、教員各自が予め教科内容について学習指導の計画を立てて授業に臨み且つその指導結果の反省資料にも供する目的で所謂「週案」「日案」を作成してこれを校長に提出することが決められており、当時同校の殆んどの教員はこれを忠実に実践していたが、控訴人だけは「自分には永年の経験による腹案があるからその必要がない」と自説を固執して日案は全く作成せず、週案の作成、提出も所定期限に遅れることが多く、再三校長からも作成提出方を捉されたが自ら進んでこれに応じようとしなかつた。

右各認定に反する控訴本人の供述部分は信用できず、また控訴本人の供述により真正に成立したものと認められる甲第五号証によつても右認定を覆すに足りず、他にこれを左右するに足る証拠はない。

しかし控訴人が所定の時間割表に従つて授業しなかつた旨の被控訴人の主張(答弁四の(一)の(1)の(ハ))については、これを裏付ける唯一の具体的な資料として乙第二号証の四の三の調査結果が存在するけれども、同号証は昭和三五年当時控訴人が担任していた学級(三年生)の児童が記載したと称する乙第二号証の四の四の学級日誌と時間割表とを対照して調査作成されたものであるが(証人別府国丸の証言)、右学級日誌を仔細に検討すると、担任教師である控訴人の検印が全くなく、また給食のことが書かれているが、この点控訴本人の供述ではこれを強く否定しており、しかも証人別府国丸の証言により真正に成立したと認められる乙第五号証の昭和三五年度「森山の教育」と題する学校運営のパンフレツト中にも学校給食に関する事務分掌等の記載が窺われず、他に森山小学校で当時学校給食が実施されていた事実を積極的に肯認し得る証拠もないから、果して右学級日誌が当時の児童により真に書かれたものか多分に疑問が存し、従つてかかる資料を基にして作成した前記調査結果(乙第二号証の四の三)も結局信用性に乏しいものと云わざるを得ない。証人別府国丸、同末吉保男らのこの点に関する証言もすべて右の調査結果による供述であつて具体性を欠き、他に被控訴人の右主張事実を認めるに足りる的確な証拠がない。また控訴人が昭和三五年度夏期休暇中に校外生活指導を一回も行わなかつたとの点(答弁四の(二)の(5)の(ヘ))は、これに副うような前掲乙第二号証の二(別府校長作成の意見書)及び弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる乙第二号証の四の八があるが、右意見書は伝聞により作成されたもので真偽の程が明らかでなく、また乙第二号証の四の八は証人川原登の証言に対照してそのまま信用できず、他にこれを認め得る確実な証拠はない。

しかして前記認定の(1)(2)(3)の各事実よりすると、控訴人が多年にわたり著しく遅刻を重ね、勤務中においても学校全体の日課表である校時表を誠実に守らなかつたり、節度のない勤務振りは、学校集団としての秩序ある運営を阻害し、児童の適正な保護管理にも当を欠くばかりでなく、児童に対する教育指導上からも好ましくない影響を与えるもので、その勤務態度は教師としての自覚に欠け著しく怠慢であつたと云わなければならない。

また前記(4)の「週案」「日案」については、既に認定した如く学習指導に計画性をもたせる目的で作成されるものであり、そして校長にこれを提出するのは校務全般を掌理し所属職員を監督する立場にある校長が(学校教育法第二八条第三項)、個々の教員の行う学習指導の要領乃至各教科の進み具合を把握し、これに適切な助言指示を与える必要から当然に要請されるものであるから、教育の自主性を害し不当な干渉にわたらない限り、「週案」「日案」の作成、提出は教育効果の向上に寄与するものであることは多言を要しない。しかるに控訴人がひとりこのような意義、目的を無視して頑くなに自説を固執し、その作成、提出を怠つたことは教師としての職責を忠実に尽さなかつたものと云うべきである。

(二)  控訴人の教科学習の指導について

前掲乙第二号証の二、同号証の四の一、同第五号証及び証人別府国丸、同末吉保男、同瀬戸口吉三郎、同松方敏博、同留岡喜佐子、同池尻実男の各証言並びに控訴本人尋問の結果(但し後記信用しない部分を除く)を総合すると、次の各事実が認められる。

控訴人は、

(1) 各教科全般にわたつて教材の研究が充分でなく、その指導内容も一貫した計画性を欠き、所謂場当り式の授業に終始することが多かつた。

(2) 国語科の指導にはかなりの熱意を示し、殊に作文指導に優れ相当な成果をあげていたが、その指導内容が読み、書きに偏し、文章の理解力とか、話し方、聞き方、発表力等についての指導が不足していた。

(3) 社会科については、当時担任していた三年生の課程としては、児童の身近な地域社会(居住町村)に関する現象を習得させることになつていたのに、これと余り関連のない例えば自己の見聞した関西方面の話に相当時間を費し、そのため本来の学習領域に関する指導がおろそかになつた。

(4) 算数科の指導については、専ら計算技能の習得にのみ力を注ぎ、応用能力の養成とか図形教材の取扱が不充分であつた。

(5) 理科については、主として自然現象の観察、実験の指導が充分に行われなかつた。

(6) 音楽科については、オルガン等の楽器演奏が不得手で指導能力に欠けていたため、森山小学校在任中は他の同僚教員に授業を依頼したり、校長の承認を得て家庭科との交換授業をして貰つていたが、その間オルガンの練習等をして自らその指導ができるように努力した形跡が少しもみられなかつた。

(7) 体育科については、年令的にも高令(昭和三五年当時既に五六才)であつたため、自ら率先して実技指導をすることができず、特に指導目標に示された鉄棒等の器械運動の指導が殆んど行われず、主としてドツチボール運動のみに終始することが多く、しかも児童だけを運動場に出して放任したり、体育の時間に正規の授業を行わないことがしばしばあつた。

(8) 文部省の指示で昭和三六年度より小学校の教育課程が全面的に高度な水準に改訂されることになり、その切換えのための移行措置として昭和三四年から二ケ年間準備教育期間が設けられたが、当時自己の担任していた三年生の児童に対し右準備教育に必要な教科指導を充分に行わなかつたため(特に算数科は全般的に不充分であつた)、翌年これらの児童が四年生に進級した後も新担任の教員においてなお前学年の教科課程を反覆指導する必要が生じた。

(9) 教科外活動については、作品募集や学芸会の指導に熱心な余り、一部教科を犠牲にしたり、その指導が一部の児童に偏して他の児童を放任状態に置くことが多かつた。

右各認定に反する控訴本人の供述部分は信用できず、他にこれを左右するに足る証拠はない。

しかし図工科及び家庭科の学習指導に関する被控訴人の主張(答弁四の(一)の(2)の(リ)、(ヌ))は、これに副う証人別府国丸の証言があるが、該供述部分は内容が具体性を欠き不明確であり、また道徳の指導を怠つたとの点(答弁四の(一)の(2)の(ヲ))については、これを裏付ける乙第二号証の四の三の調査結果及び証人別府国丸らの供述部分が既に説示したように信用できず、他にこれらの各事実を認め得る証拠もない。

次にクラブ活動の時間に命じられた殊算の指導を怠つたとの点(答弁四の(一)の(2)の(ワ)後段)については、これを認めるに足る的確な証拠がないばかりか、むしろ昭和三五年当時控訴人担任学級(三年生)の児童が多数殊算検定に合格して校長より誉められたことがある程であるから(証人別府国丸の証言)、これが指導を怠つていたとは到底認め難い。なお学校行事に積極的に参加しなかつたとの点(答弁四の(一)の(2)の(カ))については、これを認めるに足る的確な証拠がない。

しかして前記認定の(1)乃至(9)の各事実を総合すると、控訴人の教科学習の指導には計画性がなくその内容に顕著な不均衡がみられる上、その指導方法も極めて拙劣(特に体育、音楽の指導力は皆無)であつたことが明らかである。もつとも控訴人が特定の教科指導についてかなりの熱意をもつていたことは否定できないが、遺憾ながら年令的にも戦後教科内容の著しく変革された小学校教育の担い手として、新しい教科内容に自己の授業方法を適応させることができず(適応すべく研鑚努力した形跡も認められないが)、その指導が所謂読み、書き中心の詰込み主義的な旧教育の弊に惰していたことは、新教育の掲げる指導理念にも著しくかけ離れたものと云わなければならない。

(三)  控訴人の校務の処理状況について

前掲乙第二号証の二、証人留岡喜佐子の証言により真正に成立したと認められる乙第二号証の四の五及び証人別府国丸、同末吉保男、同留岡喜佐子の各証言によれば、控訴人は森山小学校在任当時、校務分掌として家庭科の備品管理、公文書、履歴書等の編綴保管の仕事を分担していたが、校長の再三にわたる注意にも拘らず、殆んどこれを行わず、また控訴人の担人学級児童の出席統計(毎月)を所定期限までに提出せず、このため学校全体の集計ができず統計主任をしばしば困惑させたことが認められ、控訴本人尋問の結果中これを反する供述部分は信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

右事実によると、控訴人は校務の処理についてもその職責を誠実に果さなかつたことが明らかである。

(四)  控訴人に対する勤務評定について

証人西村健一の証言により真正に成立したと認められる乙第三号証の二及び証人別府国丸、同鶴留徳一の各証言によれば、控訴人に対する校長の勤務評定は極めて悪く勤務実績の評価は最下位の段階にあつたことが認められる。

二、教職員に必要な適格性を欠く点

(一)  控訴人の利己的傾向及び協調性等について

前掲乙第二号証の二、同号証の四の一、証人西村健一の証言により真正に成立したと認められる乙第三号証の九、証人別府国丸の証言により真正に成立したと認められる乙第六号証及び証人別府国丸、同西村健一、同末吉保男、同瀬戸口吉三郎、同松方敏博、同池尻実男の各証言を総合すると、次の各事実が認められる。

控訴人は、

(1) 個性が強く自己の経験のみによる指導方法等が至上のものと固執して容易に他と協調せず、校長や同僚の意見、忠告を謙虚に聴き入れないことが多く、殊に指導計画(週案、日案)の作成提出や担任学級の教室の整理整頓についても校長から再三注意を受けながらこれに応じようとしなかつた。(週案、日案については前示認定のとおり)。

(2) 年次休暇をとつて旅行する場合、予め事前に校長の承認を得ないで勝手に出かけたりすることが再々あつた。

右各認定に反する控訴本人の供述部分は信用できず、他にこれを左右するに足る証拠はない。

しかし控訴人が自己宣伝をしたり、学芸会の練習に用具、場所等を自己本位に専用したとの点(答弁四の(二)の(2)の(ハ)、(ニ)後段)は、いずれもこれを認めるに足る証拠がない。また物品販売の点(答弁四の(二)の(2)の(ホ))については、控訴本人尋問の結果によると、控訴人が大阪で貿易商を営んでいる長男から貰つた衣類を親しい同僚や校区民に好意的に分けてやつたり、児童から頼まれて学用品を買つてきたもので、これにより何等かの利益を得ようとするなど不純な動機があつたとまでは認められないから、この点非難に値する行動と云えない。

しかして前記(1)、(2)の各事実からすると、控訴人は個性が強く自説に固執し過ぎて他との協調性に乏しい性格であると云わざるを得ない。

(二)  控訴人の虚言について

前掲乙第二号証の二、証人別府国丸の証言により真正に成立したと認められる乙第二号証の三の二、証人馬加屋重男の証言により真正に成立したと認められる乙第二号証の四の二一、証人山村トシエの証言により真正に成立したと認められる乙第二号証の四の一八及び証人別府国丸、同西村健一、同馬加屋重男、同山村トシエの各証言を総合すると、昭和三六年四月三日朝森山小学校で控訴人の担任に反対した新入生の父兄が登校拒否を行つた際、同校々長別府国丸が偶々同校付近で出会つた新入生とその父兄馬加屋重男に対し、「よく来た」と云つたのに、当時この様子を付近で見ていた控訴人は一部父兄らに「校長は折角登校して来た父兄に向かつて登校拒否だから帰れと云つた」旨吹聴したこと、控訴人が昭和三六年一月から二月にかけて児童の父兄山村辰雄方に六回位も宿泊したことがあるのに、同年三月一一日志布志町教育長らから退職勧奨を受けた際、一、二回しか泊つていないと云い張つたことがそれぞれ認められるけれども、当時控訴人は登校拒否とか不本意な退職勧奨を受けていて自己の立場を少しでも有利にする必要に迫られていたもので、このように異常な事態の下で事実と異る弁解をするにいたつたものであることが容易に推測できるから、これを強く非難するのは聊酷であり、またこのことから直ちに控訴人に性格的な虚言癖があつたとまで即断することはできない。

次に前掲乙第三号証の二、証人西村健一の証言により真正に成立したと認められる乙第三号証の一〇(但しいずれも後記信用しない部分を除く)、証人宮原健志の証言により真正に成立したと認められる乙第三号証の三及び証人別府国丸、同西村健一、同荒田静、同宮原健志の各証言並びに控訴本人尋問の結果によると、控訴人は昭和三〇年頃から再三退職勧奨を受けてきたが、その都度経済的理由でこれを拒否してきたこと、当時控訴人は知人の小幡文香の依頼で永井実昭に金二一万円を貸与していたことが各認められる。しかし控訴人が他にも多数金員を貸していたとの点は、その旨の記載がある前記乙第三号証の二及び同号証の一〇はいずれも伝聞に基づくものでそのまま信用することができず、他にこれを確認し得る証拠はない。しかも右永井に貸与した金二一万円は控訴人が昭和二九年に小学校教諭を退職した際支給を受けることになつた恩給の約二年分を融通したもので、その頃控訴人は東京に在学中の次男(大学)及び三男(高校)に相当多額の学資を仕送りしていたことが控訴本人尋問の結果により窺われるから、当時控訴人が退職勧奨に容易に応じられる程の経済的な余裕があつたとは到底考えられない。また控訴人が「森山小学校の養護婦鮫島幸子が日直をしないと云つた」旨虚構の事実を校長に告げたとの点(答弁四の(二)の(2)の(ヘ)の(ロ))は、これを認めるに足る証拠が全くない。

以上の次第で、控訴人に虚言癖がある旨の被控訴人の各主張は、結局いずれも理由がなく採用できない。

(三)  控訴人の品位及び生活態度について

前掲乙第二号証の二、同号証の四の一、一八、証人留岡喜佐子の証言により真正に成立したと認められる乙第二号証の四の一六、証人菅原光夫の証言により真正に成立したと認められる甲第二二号証及び証人別府国丸、同末吉保男、同瀬戸口吉三郎、同松方敏博、同留岡喜佐子、同池尻実男、同山村トシエ、同大島実男、同山裾弘、同今田武雄並びに控訴本人尋問の結果(但し後記信用しない部分を除く)を総合すると、次の各事実が認められる。

控訴人は、

(1) さしたる必要もないのに通勤の終バスに乗り遅れたりして児童の父兄宅に宿泊することが多く、殊に山村辰雄方には昭和三六年一月から二月までの間に六回位も頻繁に宿泊し、父兄ら家族の者から迷惑がられていた。

(2) 家庭訪問や運動会の際に児童の父兄から漬物、野菜その他の食物等を貰い歩いたり、学校で来客の残した茶菓子や宴会の残余物を自宅に持ち帰ることがしばしばあつて、一部父兄や同僚から顰蹙をかつていた。

右甲第二二号証、山村証人及び控訴本人の各供述中右認定に反する部分は信用できず、他にこれを左右するに足る証拠はない。

右認定事実からすると、控訴人のかかる行動は通常の社交範囲を逸脱し、教師たるに相応しい品位、節度に欠ける生活態度と云わなければならない。

(四)  控訴人が父兄の信頼を失つていたことについて

前掲乙第二号証の三の二、同第三号証の二、証人別府国丸の証言により真正に成立したと認められる乙第二号証の三の一、証人山裾弘の証言により真正に成立したと認められる乙第二号証の四の二三、証人今田武雄、同坂川政雄、同大島実男、同馬加屋重男、同山村トシエの各証言により真正に成立したと認められる乙第三号証の四、証人今田武雄の証言により真正に成立したと認められる乙第二号証の四の一九及び証人別府国丸、同西村健一、同馬加屋重男、同坂川政雄、同山村トシエ、同大島実男、同山裾弘、同今田武雄、同川原登、同宮原健志の各証言並びに控訴本人尋問の結果(但し後記信用しない部分を除く)を総合すると、控訴人が昭和二八年四月森山小学校に赴任して以来、前記認定のような控訴人の学習指導上の諸欠点や問題の生活態度等につき父兄の間においても不満の声が次第に高まり、昭和三五年度の三年生担任が控訴人に決つた際、その父兄ら十余名が同年四月一日担任拒否を校長に申し込んだが、結局校長の説得により一応ことなきを得たが、次で翌三六年四月一日の入学式の際、一年生の担任が控訴人と発表されるや、これを不満とする今田武雄ら一部父兄が他の一年生父兄に対し、担任を他の先生に替えて貰うよう校長に申し入れ、若しその要求が容れられないときは登校拒否も辞さないことを発議し、右今田において、控訴人の教科指導が特定の科目に偏し特に音楽、体育の授業が満足にできず、家庭との通信連絡も不充分であること等を主たる理由とする「担任自退意見書」(乙第三号証の四)を起草し、その末尾に父兄全員の氏名を記載して、各自これに押印するよう呼びかけ、その結果一年生の父兄全員が右書面に押印するにいたつたこと、しかしこれらの父兄の中には事態の意味をよく理解せず、その場の雰囲気からこれに追従して押印した者も一部いたが、右発議に対し特に異議を述べた者はひとりもなかつたこと、一方学校側ではこのような父兄の動きに対処すべく直ちに志布志町教育長らに連絡してその指示により同月二日父兄に対し児童を登校させるよう文書(乙第二号証の三の二)を配布して事態の収拾に当つたが、翌三日の月曜日には遂に一年生の児童全員が登校しなかつたことがそれぞれ認められ、右認定に反する甲第二一号証及び控訴本人の供述部分は前掲各証拠と対比して信用できず、他にこれを左右するに足る証拠はない。

右認定の各事実によれば、控訴人の学習指導の諸欠陥乃至節度のない生活態度等が父兄間にも教師としての信頼感を失わせる結果となり、これが直接の原因となつてかかる担任拒否とか登校拒否と云う最悪の事態を惹起し相当期間学校教育を混乱させるにいたつたことが明らかである。従つてそれがたとえ一部父兄の主導的役割により発議遂行されたものであつても、控訴人に対する批判、評価が的を外れたものでない以上、このことによつて控訴人に責むべき点がなかつたとは云えない。

(五)  控訴人が非常識且つ不作法であつたとの主張について

前掲乙第二号証の二、同号証の四の一、証人留岡喜佐子の証言により真正に成立したと認められる乙第二号証の四の一四及び証人別府国丸、同末吉保男、同瀬戸口吉三郎、同留岡喜佐子の各証言によると、控訴人が昭和三五年三月八日頃森山小学校の宿直室の風呂場に自己の下着を洗面器に浸して置いたり、児童に対し日頃「おい」「わい」等の言葉を使つていたことが認められるけれども、当時宿直室には独身の教員竹迫康広が起居して自炊生活をなし、同人も平素から洗濯等を行つており、しかも控訴人が下着を浸していた問題の洗面器はその頃既に使用済みとなつた古いものであることが控訴本人尋問の結果により窺われ、また控訴人の言葉使いもこの地方(鹿児島県の田舎)独得の方言であれば必ずしも卑俗な言葉ときめつける程のこともないから、結局これらの言動はいずれも些細なことと云うべく、従つてこの点控訴人が特に非常識且つ不作法であつたとは認められない。

三、総合判断

以上一及び二において遂次検討してきたように、控訴人は教員の経験を多年積んではいたけれども、遺憾ながら教師として最も重要な職務内容と目される教科学習に関する指導面においてその指導能力、方法、内容等が他の一般教員に比し著しく劣り、その職責を充分尽すことができなかつたばかりでなく、勤務状況も怠慢で節度がなく、校長の再三にわたる指示にも従わず、その上生活態度も極めて放恣に流れ教師たるに相応しい品位に欠ける行動が多く、性格面でも個性が強過ぎて他との協調性に乏しく、また大多数の父兄からもその信頼を失つていたことが認められ、しかもこのような諸欠陥の矯正は控訴人の年令、素質、性格、能力等から考えて容易にこれを期待できないものと思料されるから、これらの各事情に総合勘案すれば、控訴人の勤務実績は不良で(地公法第二八条第一項、第一号該当)且つ教職員に必要な適格性を欠く(同第三号該当)と判断されても已むを得ないものと云わなければならない。従つて控訴人に対する本件分限免職処分は、その処分事由の点においても相当であり、何ら違法はない。

第四、控訴人主張の権利濫用について

控訴人が昭和二九年三月末退職勧奨により小学校教諭を退職し、同年四月二日同講師に採用されて以来引続き毎年退職勧奨を受けたが、その都度これを拒否していたこと、森山小学校在職中、昭和三五年四月に担任拒否、翌三六年四月に登校拒否の事態が生じたこと、被控訴人が同年四月一日付で控訴人を志布志小学校に転勤発令したことは、いずれも当事者間に争がない。そして右事実に証人別府国丸の証言により真正に成立したと認められる乙第二号証の一、二、証人西村健一の証言により真正に成立したと認められる乙第三号証の一、二、前掲第三号証の三、同第四号証の一及び証人別府国丸、同西村健一、同鶴留徳一、同荒田静、同宮原健志の各証言を総合すると、鹿児島県教育委員会(被控訴人)では、従来から毎年教育行政上(教育振興)の見地より県下小学校教員の人事の刷新、新陳代謝を図る目的で年令、在職年数、等につき予め一定の基準を定め、その該当者に対し任意退職を勧奨してきたところ、昭和二九年度以降控訴人が右基準に該当するようになつたので、更に控訴人の勤務成績、教員としての適格性、身体の状況等をも併せ勘案した上、控訴人を退職勧奨の対象者とするのが相当であると判断し、爾来毎年控訴人に対し囎唹郡教育事務所長及び志布志町教育長らを通じて退職の勧奨を行つてきたが、その都度控訴人は経済的理由を主張してこれを拒絶してきたこと、そして既に認定したような経緯で(前記第三の二の(四))父兄らが控訴人の勤務状態や素行等を不満として昭和三五年四月に担任拒否を行い、次で翌三六年四月三日には登校拒否と云う最悪の事態にまで発展するにおよんで、県教育委員会は右事態の収拾を早急に計るため、本人の同意を得た上控訴人を同月一日付で一先づ志布志小学校に転勤させるとともに、一方その頃からこれが原因究明の調査に乗り出し、控訴人の職務上の監督者である志布志町教育長、森山小学校長及び志布志小学校長らを通じて控訴人の勤務実績等に関する具体的資料を調査蒐集し、これを総合検討した結果、控訴人に地公法所定の分限免職事由があるものと判断して本件処分を行うにいたつたことがそれぞれ認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

控訴人は、担任拒否乃至登校拒否は控訴人に対する退職勧奨が効を奏しなかつたため、被控訴人が当時の森山小学校長別府国丸と通謀し地元の有力者やPTA幹部らに働きかけて行わせたものであると主張し、控訴本人尋問の結果中にはこれに沿うような供述部分があるが、右供述内容は伝聞乃至自己の単なる臆測に過ぎず、証人別府国丸、同西村健一、同今田武雄、同宮原健志、同山裾弘の各証言と対比しても信用することができない。また控訴人は、退職勧奨が執拗且つ強硬に行われたと主張し、この点控訴本人尋問の結果においても「殊に昭和三六年三月一一日に行われた退職勧奨の際には、その衝に当つた宮原教育事務所長と西村志布志町教育長が控訴人に乱暴を働き、更に宮原所長はこれに応じなければ直ちに免職処分にすると放言した」旨供述するが、前掲乙第三号証の三及び証人宮原健志、同西村健一の各証言からすると、その際控訴人のとつた態度がかなり不誠実なものであつたため、多少その場の雰囲気が尖鋭化したであろうことは推測するに難くないが、このことから控訴人主張の右事実を確認することはできないし、控訴本人の該供述部分も右各証拠と照らし聊事実を誇張したきらいがあつてたやすく信用できない。

そうすると本件免職処分がなされるにいたつた経緯は前記認定のとおりであつて、控訴人主張の如く専ら退職勧奨に応じなかつたことに対する報復としてなされたものとは到底認められず、他に権利濫用と目される事情も見当らないから、この点に関する控訴人の主張は採用できない。

第五、以上の次第で、被控訴人のなした本件分限免職処分には何らこれを違法とすべき瑕疵が存しないから、これが無効確認乃至取消を求める控訴人の本訴請求はいずれも理由がなく、これを棄却した原判決は相当である。

よつて本件控訴はいずれも理由がないからこれを棄却すべく、民事訴訟法第九五条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 中池利男 永岡正毅 長西英三)

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